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大聖寺近辺
               
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キャンバス停車場にはこのような表示板が立っています




石川県九谷焼美術館には
大聖寺藩がおこした
九谷焼が展示されています


大聖寺の由来

兵どもの夢の跡(昔、錦城山には、大聖寺城がありました)

 大聖寺という町の名前はその名のとおり、お寺の名前から始まっています。
 長寛元年(1163)に作られた「白山之記」という書物には、白山五院の一つとして「大聖寺」というお寺の名前があげられています。このお寺は、おそらく錦城山(大聖寺にある標高60mの小高い山)の上にあったらしいのですが、いつからいつまで存続したかは明らかでありません。
 大聖寺では、錦城という名が普遍しており、小学校や中学校、はては、お風呂屋さんの名前でも「錦城」を冠したものがあります。

 大聖寺が日本史に登場するのは、侍が勃興し、彼らが全国を舞台に駆け巡るようになった「太平記」の時代以降であります。
 太平記によれば、建武2年(1335)北条氏の残党である名越(なごや)太郎時兼が、加賀・能登・越中の兵を引き連れて都に上ろうとしたとき、敷地方天神の神官狩野氏を中心とした郷党が、宮方として大聖寺城によってこれを防ぎ、時兼を敗死させたことが記されています。
 
 また、その2年後の、延元2年(1337)南朝方の畑時能(ときよし)が狩野方を味方として、当時津葉城にたてこもっていた津葉五郎清文を攻めて大勝利をあげ、新田義貞亡き後の北陸の南朝側のために大いに気勢をあげました。
 今も、狩野という名前は、加賀地方では比較的多い名前です。
 また、この地方では、都に上り一旗あげるには、軍勢を南に南下させるので、旧制第四高等学校(金沢)の柔道部が、京都の第三高等学校に遠征する際には、応援歌「南下軍」を歌って、士気を高めたそうです。

 また、大聖寺は浄土真宗の町でもあります。
 文明3年(1471)、越前と加賀の境にある吉崎に蓮如上人がきて、僧や役人を説得し、北陸の一角にその勢力を植え付けました。その種子は見事に成長し、加賀の守護富樫氏(とがし)を滅ぼし一向一揆の勢力となり、「百姓の持ちたる国」といわれ、越前の朝倉氏と何度も大聖寺城での攻防戦が繰り返されました。
 その後、織田信長による全国支配の手がこの地にもおよび、凄惨な一向宗との戦いの後、天正3年(1580)柴田勝家の配下となりました。

 柴田勝家の滅亡後、秀吉の部下の溝口秀勝が大聖寺城を守りましたが、溝口氏は、後に新発田に転封され、越前小早川秀秋の老臣山口玄蕃(げんば)宗永の守ることとなりました。

 
慶長5年(1600)関が原の合戦が起こる前、その余波は加賀にもおよび、東軍に味方した金沢の前田利長は、西軍に応じた山口玄蕃の大聖寺を討とうとして、関が原の前哨戦が起こったのです。

 慶長5年8月3日の早朝から始まった戦いは、夕刻になって雌雄が決しました。



大聖寺川下り
  船着場前


 
 
庭はいて
出でばや寺に
散る柳

松尾芭蕉が奥の細道で
全昌寺に泊まった際の句

 
 敗れた山口玄蕃や息子の首は、福田橋の首塚に葬られました。勝った前田方も、帰路に西軍に味方した小松城の丹羽長重(にわながしげ)の猛攻を受け(小松市の浅井畷の戦い)、さんざんな目にあって、金沢に帰りました。

 思えば、金沢から大聖寺までの、高速道路を使えば約20分で行ける狭い範囲の南加賀の平野で東西両軍が混在し、生き残りをかけた激戦が繰り広げられたのです。

 関が原の後、江沼一円は、前田家の支配するところとなり、城代が数代にわたって派遣されていましたが、元和の一国一城令で城は完全に廃され、寛永16年(1639)前田利治が初代大聖寺藩主として金沢から分封されましたが、城は造らず藩邸を現在の錦城小学校から江沼神社にかけての一帯に構え、大聖寺川、熊坂川を自然の堀として明治維新にいたりました。

                                参考図書: 加賀市発行 加賀の旅
                                          


   
石川県九谷焼美術館前              大聖寺寺院群の一角